詩と広告

By 2010/11/30 No tags Permalink

1939年に日系アメリカ人の言語学者S.I.ハヤカワ先生によって書かれた本「思考と行動における言語」をここ最近ちまちまと読んでいた。

なぜ今こんな本を読んだかといえば、自分自身が本を書いてみて、あらためて言葉ってなんなのか少し深く考えてみようと思ったからだ。書いてから思うなよって感じだけど。

本書の本題である意味論(セマンティクス)に触れると長くなるので、それは追々やるとして、今回ちょいとご紹介しようと思うのは第十六章「詩と広告」という章だ。

僕らは詩と広告はあらゆる点で対照的だと思っている。詩というのは言語芸術の中で最も高尚なものと普遍的に認められているのに対し、広告は商業の一つの役割に過ぎない。詩は学校で学び、厳粛な行事で朗読され、立派な教養人が楽しむものだけど、広告は日常の一部だ。全然別物だ。

にも関わらず、詩と広告は多くの共通点を持っている。

たとえば、両方とも韻やリズムを多く利用する。たとえば、言葉の指示的内容よりも感化的内容価値によって語を選ぶ。たとえば、意識的に曖昧さを利用して複数の意味を持たせようとする。そして最も大きな類似点は、

日常の経験の細目に特別な意味付けをしようと努力する点

にある。と、ハヤカワ先生は言っている。

A primrose by the river’s brim, 川辺に咲くサクラソウ
A yellow primrose was to him, 黄色いサクラソウは彼にはただのサクラソウ
And it was nothing more. それ以上のものではない

作者のワーズワースはこの詩の中では「ただのサクラソウ」と言っているが、実際には全然ただのサクラソウではなく、そこにたくさんの意味を込めたり、象徴的であることを表現している。「早春の喜び」「愛」「神の恵み」「はかなさ」などだ。

広告も似たようなものである。コピーライターは石鹸を一個の石鹸にとどめてはおかない。コピーライターはそこに詩人のごとく意味を込めなくてはならない。そのものを超えた何かの象徴になるように。幸福な家庭の象徴、優美な女性の象徴、荒々しい男らしさの象徴。たとえそれが歯磨き粉だろうと、コーヒーだろうと、自動車だろうと、そこに意味を込めなくてはならない。

コピーライターの仕事は消費財を詩化するところにある

と述べている。確かに今まで考えたこともなかったけど、詩と広告というのは驚くほど近い。これも本書からだが、次のワーズワースの詩を見て頂きたい。

おとめは愉悦の幻影であった。
はじめてわが目に映じたとき。
それは瞬間の光彩として送られた愛らしき幻。
その瞳は黄昏のように美しく。

こいつをたとえば、こんな感じで化粧品のポスターにくっつけてみたらどうなるだろうか。ちょっと実験してみよう。

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これを見れば、いかに詩と広告が近いかがおわかり頂けたことだろう。ではこちらはどうだろうか。

[youtube=http://www.youtube.com/watch?v=FMg4yJfbQ_U?hl=en]
花鳥風月

日本の赤は眼瞼に熱い
日本の赤は心に溶ける
花鳥風月 月桂冠

いやー、惚れぼれする。真田△だ。最後の「月桂冠」がなければ完全に詩である。このCMでは「赤」に曖昧さを持たせることで、複数の意味を込めていることがわかるだろう。色々な「赤」が、それぞれがごく自然に織り込まれている。参った。お見事だ。やっぱ酒は日本酒だなって気にならないだろうか。思わず一升瓶を片手に散歩したくならないだろうか。

これは1992年のCMだそうだから、かなり古い。でも色褪せてない。それどころか価値を増している気さえする。これを見れば、いかに詩と広告が近いかがおわかり頂けたことだろう。

僕らは普段言語というものを駆使して情報を伝達しているわけだけど、日常のコミュニケーションで使用している言葉と、詩で使用される言葉は随分と異なる。それが指示的言語感化的言語の違いだ。前者は論理的であり、後者は感情的だ。

今すぐできる『戦略思考』の教科書でも述べたが、似たような製品が、似たような価格で市場に溢れている昨今、これまでのように製品の機能を論理的に「説明」するだけでは人の心を動かすことはとても難しくなった。だからひとつの戦略として、物語形式を使って聞き手の感情にも訴える技法をご紹介したわけである。もはやコピーライターだけが製品を詩化する時代ではないし、消費財だけが詩化される時代ではない。

となると、今あらためて考えてみるべきは、僕ら自身の日本語能力だ。このところ企業における英語の社内公用化などが話題になっているが、それ以前に、そもそも、自分の日本語の使い手としてのレベルはどんなもんだろうか、と問うてみるべきじゃないだろうか。若干心配になってきた。特に感化的言語能力はなかなかに高めることが難しい。なぜならばこいつばかりは単純にどれだけ多くの文学作品や詩に触れたかにかかっているからだ。

どうしても言語学習というと英語、中国語というように多国語を学ぶイメージだけど、指示的言語、感化的言語という少し違った軸で言語を捉え直してみると面白いかもしれない。指示的言語、感化的言語の両方を使いこなすことができれば、とても強力な強みになるのだ!気のせいかもしれないけど。

こんなだったら僕も暇な学生時代にもう少しくらい文学に触れておくんだったぜ。。。

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