衰退、そして創造と再生〜ルネサンスと日本文化 II 〜

「なぜ応仁の乱は起きたのか?」

この簡単な疑問にすら、僕は答えられません。教科書的には、足利将軍家の家督争いから始まる守護大名、細川家と山名家の戦がキッカケってことになります。では、なぜ家督争いが起きたのでしょうか?それは足利将軍家の力が弱体化していたことが大きな原因です。では、なぜ足利将軍家は弱体化したのでしょうか?これは逆説的に各地の守護大名が室町時代の平和な時期に大きな権力を持つようになったことが原因です。初代将軍足利尊氏は南北朝時代に北朝を擁立し、後醍醐天皇率いる南朝と、その将である楠木正成と激しい争いを続けたわけですが、南北朝が完全に統一されたのは1392年(明徳の和約)で三代将軍足利義満の時代です。つまり、幕府運営のグランドデザインをしっかりとできないまま足利尊氏は世を去ったと言えます。これ以上の深入りはしませんが、重要な点は、足利室町幕府は、脆弱な体制で運営されていたということです。

室町幕府に致命的なダメージを与えた真の元凶は?

そこに大きな負荷としてのしかかってきたのが自然災害です。現在のようにテクノロジーが発達していない当時、干ばつ(旱魃)や冷害は、即、飢饉が発生するという意味で、幕府が最も恐れた天変地異と言えるでしょう。そんな弱体化した室町幕府を襲ったのは、ケタ外れの干ばつでした。1459年頃から数年にわたって日本では作物が育たないという、恐ろしい状況が続いたのです。

この飢饉に対し八代将軍足利義政は手を打つどころか、世捨て人のように隠居をしてしまったというから驚きです。国の危機において将軍が役に立たないのではどうしようもありません。そこで登場してくるのが、足利義政の正室であり九代将軍義尚(よしひさ)の母、日野富子と、細川勝元と山名宗全だったわけです。この大飢饉の最中に日野富子は細川勝元と組んで自分の子を将軍にするために画策し、対する山名宗全は義政の弟である足利義視(よしみ)を擁立し、激しい対立を生じさせることになります。そして、これが最終的に京の都を焼き尽くす応仁の乱へと発展していくわけです。

日本の歴史の授業では1452年に南太平洋の小さな群島、現在のバヌアツ共和国で起きた巨大な海底火山クワエの噴火が取り上げられることはほとんどありません。少なくとも僕は聞いたことがありませんでした。そして1452年の南太平洋クワエの大噴火が、その後少なくとも3年にわたって世界から夏をなくし、世界中で大飢饉を引き起こしたことも、ほとんど教えられていません。

応仁の乱とルネサンスの共通点

この大噴火が日本では長禄・寛正の飢饉(1459年〜1461年)の引き金となり、ヨーロッパではオスマン人の大移動に伴う東ローマ帝国の滅亡(1453年)へとつながります。東ローマ帝国も室町幕府同様以前から弱体化していた点は同じですが、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)が陥落する引き金となったのは、やはり、1452年の南太平洋の大噴火に端を発する飢餓と言えるわけです。ギリシア正教の東ローマ帝国からイスラム教のオスマン・トルコ帝国へ、となれば、多数の知識階級のギリシア人がコンスタンティノープルから西ヨーロッパ(特に現在のイタリア)へと亡命しはじめた理屈も理解できるでしょう。この時に亡命ギリシア人たちは様々な思想や技術、科学、特にイスラムの高度な数学を持ってイタリアへとやってきたわけです。

ヨーロッパが中世を抜け出したキッカケは外圧

イタリアを中心に芸術、科学の花が開いたルネサンスは一方で、世界的な不作、飢饉、オスマン・トルコ帝国の侵入による東西交易の遮断、地中海交易権の剥奪による経済の停滞などどんよりするような状況下で生まれ最盛期を迎えるのです。もし、オスマン・トルコ帝国による地中海支配がなければ、ヨーロッパ人にとって海とは地中海であり続けたのかもしれません。オスマン・トルコ帝国の地中海支配によって、印刷技術、測量技術、航海術、造船技術、これらすべてが同時多発的に飛躍的な発展を遂げ、ヨーロッパ人は地中海から大西洋という外洋へ飛び出して行ったのです。

ヨーロッパではクワエの大噴火によって東ローマ帝国の滅亡という大きな転換点を迎えました。これによってルネサンスは最盛に向けて加速したわけです。かたや日本はどうでしょうか。僕たちは応仁の乱から戦国時代へと続く歴史は年表で学びましたが、ヨーロッパのルネサンスと全く同じ事が起きていたことはあまり知りません。しかし、実際の所、後の日本人に極めて大きな影響を及ぼす、文化、芸術、建築、生活習慣のほとんどが、ルネサンスと同じ時期に生まれています。この時、日本で生まれた代表的な思想が「わび、さび」と言えるでしょう。また現在の日本でも最大の仏教宗派である浄土真宗が飛躍的に拡大したのもこの時期です。政治においては、とんと無頓着で、その悪政により一体どれだけの尊い命が失われたかわからない八代将軍義政ですが、一方で彼が後の日本に残したものは、実に偉大であることも間違いのない事実です。

衰退ではなく、飛躍に向けての準備

このように歴史を振り返ってみると、私たち人類、そして日本人の前には天変地異や飢餓、戦争のように厳しい試練が何度も立ちはだかってきました。そして、そのたびに、私たちの祖先はそれを不屈の闘志で乗り越えてきたのです。確かに今僕たちは「失われた20年」を生きているのかもしれません。政治的にも、不信が続いてきたのも事実です。しかし、動物が勢いよくジャンプするためには、一度大きく身を縮めるように、日本という国もまた次のスタートダッシュに向けてクラウチングの必要があったのだと僕は考えたいです。今、巷ではアベノミクスという言葉がそこかしこで聞かれます。いよいよ、20年の準備期間を経て、再び日本の再生、飛躍の時期が来たのかもしれません。

衰退、そして創造と再生〜ルネサンスと日本文化 I 〜

「失われた20年」

そんな言葉を誰もが100回や1000回くらいは聞いたことがあるでしょう。失われた20年。なんとなく響きも良いです。良い感じでどんよりします。特にメディアを通じて、こんな暗い内容ばかり流されると、20年間を無駄にした政府や政治家を批判したくなるんです。人の性です。

ここではこの20年の日本の政治がどうだったかは別として「失われた20年」という言葉をもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。まずは、この20年で一体何が失われたのでしょうか?日本の領土?日本の金融資産?日本の人口?

実際にはそんなに色々と失ってはいません。そりゃ株価はバブルの頃よりは下落したかもしれませんがGDPはほとんど横ばいでキープしてます。むしろ、この20年は為替に翻弄され、景気後退局面にあるにも関わらず厳しい円高が続いていましたが、それでも踏ん張ってきた日本経済ってものを考えると、日本の底力を見せつけられる思いがします。

確かに政府の借金は増え続けているし、税収は落ち込んでいます。少子高齢化はますます加速し、グローバル化の波は否応なしに日本にもやってきているのが現状で、それはそれで大変ですが、こんなの仕方のないことです。日本政府だけでどうにかなるもんでもありません。よく、日本は外圧がなければ変われない、なんて言われますが、本当のところそれは日本に限ったことではないのかもしれません。

フィレンツェの景色 © Francisco Antunes

14世紀にヨーロッパでルネサンスが興りました。こんなことは社会の授業で習ったのでみんな知っているでしょう。ヨーロッパでルネサンスによる文化の花が開き、ダ・ヴィンチ(1452〜1519)やミケランジェロ(1475〜1564)などの巨匠が活躍していた時(15世紀〜16世紀)、日本では何が起きていたでしょうか。

応仁の乱(1467〜1477)です。応仁の乱が収束した後も、各地で内戦が続き、最終的には全国を巻き込む戦国時代がやってくることはご存知の通りです。僕たちは、ルネサンスと応仁の乱を、社会の別の授業で習いました。少なくとも、この2つの歴史的事象に強い相関関係があることは教わった覚えがありません。しかし、物事には大概原因というものがあり、それをひとつずつ紐解いていくと、これまで見えていなかったものが鮮やかに浮かんでくるのです。

次回は、ルネサンスと応仁の乱の関係を見ていきます。