論理的思考能力を鍛える

今やビジネスマンに常識となったロジカルシンキング

ロジカルシンキングという言葉が一般化し始めたのはたぶん2000年前後だったような気がします。僕がまだ青二才の学生さんだった頃で、マッキンゼーという世界で最も有名なコンサルティングファーム出身のバーバラ・ミントさんって人が書いた「考える技術・書く技術」という本によって一気に市民権を勝ち得たのではなかろうかと。わかんないけど。

MECE(ミーシー)なんて言葉が登場するのも、きっとそのあたりだったのではないでしょうか。たぶん。もちろん、僕個人としては、このロジカルシンキングって考え方は極めて重要で、かつ人間は思考する存在でありますから、全員がマスターすべき基本的なものだと思っています。できれば小学生くらいからロジカルシンキングのトレーニングを行うべきじゃないかと思ってます。

ロジカルシンキングは日本語でいうと論理的思考と言われてますが、その言葉の通り、元を探れば論理学って学問領域に入るのではないかと思います。ちなみにロジックの語源はロゴスです。そのロゴスを研究していたのはアリストテレスですから、さらに大きな領域で言えば論理学は哲学とも関係してきたりします。ロジカルシンキングというのは、決して最近のビジネス用語ではなく、大分昔から研究されていた学問なわけですね。

コンピュータを操るために絶対に必要な能力

文章の作成やプレゼンテーションの作成において、とても重要になるロジカルシンキングではありますが、これを鍛えるのは実際のところ、結構骨が折れます。戦略思考の教科書でも可能な限りロジカルシンキングについてわかりやすく解説しましたが、僕自身、これが鍛えられたのは間違いなくプログラミングを通じてです。プログラムは人が指示したコードの通りにしか動きません。正常な処理も、エラーも、バグもすべてコンピュータがロジック通りに動いた結果です。

現在ではプログラムを学習するサービスも多数出てきていますので、特に学生さんは将来プログラマになるならないに関わらず、論理的思考能力を鍛える上でプログラムを学習するのが良いのではないかと思います。知的生産業務に関わる上で、論理的思考をベースに仕事が出来る人と、それがない人では間違いなく大きな差がつくでしょう。それは報告書をひとつとっても言えることです。ロジカルシンキングを知っているのと、理解できているのと、当たり前のように使いこなすことは全く別物です。そして当たり前のように使いこなせるようになるには、実際に使う以外にないような気がします。筋トレと同じ。

ドットインストール

http://dotinstall.com/

コーディング道場

http://www.coding-doujo.jp/

Codecademy

http://www.codecademy.com/ja#!/exercises/0

当たり前の中に潜む矛盾に気づくこと

論理的思考能力が鍛えられてくると、現代のビジネススキルとして出回っているロジカルシンキングが実は少しばかり片手落ちであることにやがて気がつくことになるでしょう。それは実際に僕自身がIT業界に長らく身を置き、様々な業務を通じて感じたことです。例えば先日ポストした「PDCAは回らない」というのも、その一つです。一見ロジカルなように見えて、ロジックが通っていない、そのようなケースはビジネスの現場でよく見られるものです。そして、そのような矛盾を感じ取れるようになることが、本当にロジカルシンキングが身についた、と言えるのかもしれません。

このあたりについてはまた追々取り上げていこうと思います。

PDCAが回らない5つの理由

PDCAの時期がやってきた

4月1日は新年度のはじまりってことで、多くの企業で今期の目標やら計画なんかが発表されていることと思います。4月1日ほど日本中で「PDCAをしっかり回していきます!」って叫ばれている日はないでしょう。それに4月1日は新入社員がはじめて会社に行く日ですよね。「社会に出たらホウレンソウとPDCAはキホンだ!」教わったことでしょう。そうです。PDCAは日本の企業社会で生きていくためにとても重要な言葉です。おまじないです。南無阿弥陀仏と同じです。とりあえず唱えとけ、みたいな。

ちなみに僕はマイクロソフト勤務時代から一貫した思想として、セールス、すなわち営業という業務について言えばPDCAはダメだと思っています。僕自身当時から独立した現在も何か物事を始める時にPDCAで考えたことは一度もありません。その理由は「よくわからない」の一言に尽きます。そして、よくわからないのに、みんなが当然わかっているものとしてPDCAを唱えるのに、僕は違和感を感じるワケです。

本当は多くの人が知的生産業務ではPDCAはうまく回らないってことに気づいていると思うので、その理由を5つほど挙げてみたいと思います。

その1 PDCAそれぞれの意味を完全に説明できる人がほぼいない

PDCAが PLAN-DO-CHECK-ACTION の頭文字を取ったものであることは、ほとんどの人が知っていると思います。しかし、それぞれの意味を説明せよ、と言われるととたんにわからなくなるところがPDCAの落とし穴です。Planが計画ってのはわかりますよ。Doが実行ってのもわかります。問題は次です。Checkって何でしょうね。もちろん検証ってことなんでしょうけど、セールスにおいて検証って何でしょう。売上報告を作ることでしょうか。確かに売上レポートをCHECKすることは重要でしょう。もちろん、売上が目標を達成しているのであれば、CHECKは無事クリアとなり、より良い顧客満足のためにさらなる付加価値提案活動(Action)をすれば良いでしょう。しかし、もしCHECKの段階で目標を達成していないとなると、一気に問題は複雑になります。1社、1社のアカウントプランを作り直すのか。重要顧客を抽出するような集中型で行くのか、それとも幅広いマーケティング活動に切り替えるのか。そもそも、期中にイベントや展示会への出展などの予算を切り替えることが本当に可能な経営になっているのか根本的なところに行き着いちゃうに決まっているワケです。そもそもPDは「計画して実行」なのにCheckの後のActionは「Checkの結果を元に計画を修正し実行する」ってことで「PD≒A一文字」なのも、なんとなく納得出来なくないですか。

その2 PDCAはみんな独自の解釈と理論を持っている

PDCAは非常にシンプルな言葉で、しかも一見わかりやすいので、中小企業から大企業までみんなPDCAを言うわけですが、実は一人ひとりその解釈が違っていたり、独自の理論を持っていたりするので共通言語として成り立っていないケースが目立ちます。特に大きなズレが生じるのが、これまたCheckとActionです。売上レポートを作成し報告することがCheckでしょうか。それとも1案件ごとに計画(Plan)とのズレを事細かにチェックすることがCheckなのでしょうか。契約に至るプロセスを一挙手一投足までいちいち報告することがCheckなのでしょうか。これはCheckに対する「粒度」が統一されていないことから生じる齟齬です。特に最悪なのは、売上が予想を下回っている時に上司が、そのさらに上の上司へ報告(言い訳)するために、理由(言い訳)を必要とし始めた時です。こうなると、必然的にCheck(言い訳)の粒度は段々と細かくなり、状況が悪くなればなるほど報告のための報告が増え、自由とゆとりはなくなり、マイクロマネジメントという最もモチベーションが下がる由々しき状況に陥ることになるのです。Checkの粒度は統一し、個人の独自の理論や見解が入らないようにしておかないとPDCAはやはりおかしなことになるでしょう。さらに言うとCheckを元に次の変更を加えるのがActionで、その次にまたPlanに戻るんですね。では2周目のPlanを再度作る時は、その前のActionの結果をCheckしなくても良いのでしょうか?これもちょっと納得できません。現実を鑑みれば PDCACACACPDCACACACACPDCA,,,,という感じになるのはないかと思います。つまりPDCAはサイクルではないってことです。ってか、よく考えてみると、この解釈がすでに僕独自のものになっちゃってますね。ほらね。

その3 PDCAをしっかりやりますって言えば良いと思っている

PDCAという言葉自体が免罪符になっているケースも見受けられます。「PDCAをしっかりやります」というのが実際には「頑張って営業に行きます」とイコールになっちゃってる場合が多いような気がします。PDCAが重要と言いながら、走りながら考えよう、とか、とにかく足で稼ごう、とか言い出すのは一体どういうことでしょうか。それはPDCAではなくKKD(勘と経験と度胸)って言います。本来PDCAはもっと科学的で、属人性や感情論とは切り離されたロジカルな行動理論のはずです。もしどうしてもPDCAでやるというのであれば、マネジメントは「頑張るのが大嫌いな人」に任せるべきです。営業は知的生産活動です。付加価値を明確にし、それを伝え、その価値に見合った対価のハンコをもらってくるのが営業の基本です。頑張るのが嫌いな人は、何度も何度もお願い営業に出かけることを好みません。代わりに付加価値の明確化やコミュニケーションの仕方を徹底的に練り、そのスキルアップに努めるでしょう。コミュニケーションやプレゼンテーションのやり方こそPDCAで改善していくべきものなのです。

その4 PDCAを意識して仕事をしている人がほぼいない

期が始まる時は皆が思いを新たに計画を立て、それをPDCAで回していきますって宣言するんです。ビジネスにおける期初のPDCAって言葉は、新年の抱負に出てくるダイエットって言葉みたいなもんです。大体1ヶ月と経たないうちに忘れ去られていくのです。もしPDCAのサイクルがMECE(もれなくダブりなく)なのであれば、僕らがこなしている仕事の一つひとつがそれぞれ、P、D、C、Aのどれかに必ず属しているはずです。特に売上レポートや営業の進捗の確認、つまりCheckの後、本来は次善策を作るというプロセスに移行しなくてはならないはずなのに、また明日から何事もなかったかのように顧客に振り回される日々に戻っていくのです。Checkの次はAction(別の手を打つ)なのにDo(これまで通り)を続けてしまう。なぜでしょうか。それはみんなPDCAって言葉を忘れちゃってるからなのです。

その5 PDCAを回す、みたいな言い方をするけど回らない

PDCAはスパイラルアップを前提としたイテレーションモデルです。すなわち「改善」が求められるような作業にこそPDCAは向いているのです。だから営業活動という点では「提案資料の内容」や「プレゼンテーションスキル」などはPDCAで改善させていくのは大いにありでしょう。でも「今期営業予算達成のためにPDCAを回す」というのは、言葉的にどう考えてもおかしいことに気づかなくてはなりません。そのような漠然とした営業活動に対してPDCAなんて言って本当にぐるぐるPDCAが回っている組織を僕は見たことがありません。特にPDCAのうちPばっかりこねくり回して、全然Dに行かないというケースは至る所で見かけます。逆にもし本気でPDCAを営業活動に適用しようとするならば、営業活動とは別の仕事(報告、計画立案)が激増するだろうし、それに合わせて柔軟でスピーディな意思決定ができる経営に変えていく必要があるんじゃないかと思います。

Productivity、Creativityは車の両輪

元々PDCAはアメリカの統計学者であったエドワーズ・デミング博士が、敗戦後の日本において工業製品の品質改善モデルとして提唱した理論です。実際に製造業においてPDCAは基本的な考え方となり、高度成長期の日本製品の高品質化に大きく貢献したことは事実です。製造の現場では、無駄を減らし、不良品を減らすことが何より大切です。日本製品の優位性はまさにそこにあり、高品質でありながら、短納期、低コストを実現することが成功への近道だったのです。PDCAの目的はProductivity(生産性)とQuality(品質)であり、その生まれからして「無駄」や「失敗」や「予定外」を嫌う思想なのです。これが営業の現場にそのまま持ち込まれればどうなるかなんて簡単に想像出来ますよね。営業はお客さんありきの仕事です。こっちがいくら詳細な計画を立てようとも、お客さんがその計画通りに動き、予定通りのタイミングで契約してくれる、なんて都合の良いことはなかなか起きないし、もし起きたとしたら、それは「計画が良かった」わけではなく「運が良かった」と考えるべきです。マーケティングや営業は今様々なテクノロジを活用して採れる戦術の幅がとても広くなっています。これまでは不可能と思われるような顧客にもリーチできる時代になりました。僕は営業には必ず成功するというモデルは存在しないと思っています。成功の数だけパターンがあるのです。だからこそ重要なのは発想力であり、好奇心であり、探究心であって、これらがCreativityに繋がるのではないかと思います。

PDCAからEAチェーンへ

僕自身がマイクロソフト勤務時代に営業活動において基本としていた思想が、リデル・ハートの「間接アプローチ戦略」、そしてJ・C・ワイリーの「順次戦略と累積戦略」です。どちらも軍事思想家が著した戦略概論ですが、ここから得られる示唆は非常に富んでいて、ビジネスでも活用できる考え方がたくさんあります。書籍の内容はまた別の機会に譲るとして、これらの英知と実際にそれを実践して生まれた僕らの行動原理が「EAチェーン」ってワケです。EAチェーンとは「実験(Experiment)」と「適用(Adapt)」を繰り返すということです。営業における新しい取り組みをとにかく実験的にやってみる。お客さんのために提供できること、提案できること、貢献できることを考え、それを実験的にやってみるってことです。実験であれば、誰も失敗しません。あるいは失敗さえも学びになります。うまくいくならば、以後営業活動に適用させます。たくさんのおもしろ実験をみんなで考え、次々に実行していくことです。どのように実験を進めるか、予想通りに行かなかった場合はどのように対応すべきか、その行動規範は、リデル・ハート先生の「戦略の八原則」に従うことで、成功率は飛躍的に高められるでしょう。PDCAとEAチェーン一体どこが違うのか?確かにプロセス自体は非常に似ているのは間違いありません。しかし、思想としての根っこが違う点が重要なのです。PDCAは失敗や不良を減らすための収束型の思想です。EAチェーンは失敗しても良いから独創的な実験を考え、その体験を通じて様々なことを学ぶ発散型の思想です。

PDCAという言わば常識に縛られることなく、独創性で勝負する営業チーム、これが今日本のビジネスで最も求められているのではないでしょうか。営業こそクリエイティビティですよ。自由な発想で提案活動を行うのです。ずいぶん長くなったので今日はこれまで。ちなみにリデル・ハートの戦略論からEAチェーンまで、戦略思考の教科書にすべて書いたような気がします。ぜひ暇な人はチェックしてみてくださいね。

1/fの揺らぎを感じる作業用BGM配信サービス4つ(すべて無料)

こんにちは。今日は久しぶりに雨が降っています。雨の日はなんか落ち着きます。実際、雨の音や電車の揺れ、川のせせらぎなどは人をリラックスさせる働きがあるそう。

これらすべてに共通して含まれているものがあり、それは1/fのゆらぎと呼ばれるものだそうです。なんか厨二的な響きです。 聞いたことはあったんですが、詳しく知らないのでWikiで調べてみると、
[quote align=”center” color=”#999999″]1/fゆらぎ (エフぶんのいちゆらぎ) とは、パワー(スペクトル密度)が周波数fに反比例するゆらぎのこと。ただしfは0よりおおきい、有限な範囲をとるものとする。(wikipediaより)[/quote]

意味がわかりません。

とにかく規則正しい音とランダムな音の中間の音が人を落ち着かせる効果があるそうです。また音ではなくて、ろうそくの火の揺れだとか、木漏れ日などの視覚的なものにも1/fゆらぎは存在しているようで、 確かに見ていると落ち着く気がします。ただ1/fのゆらぎはちゃんとした科学的根拠はまだないそうです。

今回はこのような1/fのゆらぎを感じることができる、BGM配信サービスをご紹介します。

RANYMOOD.com

ひたすらエンドレスに雨音を流すサイト。ただそれだけの、とてもシンプルなサイトです。時々、雷の音や小鳥のさえずり、車が通る音が聞こえて楽しいです。

JAZZ and RAIN

こちらは雨音と共にジャズやクラシックをエンドレスに流してくれるサイト。ジャズだけでなくクラシック、ラウンジなども選べるので気分に合わせて変更できます。プレイリストも作成できるそうです。

nature sounds for. me

このサイトでは自分で環境音を組み合わせて再生出来ます。自然の音や動物・昆虫の鳴き声、キッチンや花火の音など本当にいろいろな音が50種類くらいあるので、自分好みの音を組み合わせてみてはどうでしょうか。 また他の人が組み合わせた音が公開されていたり、作った音をエクスポートすることが出来るなど、機能が豊富です。

coffitivity

このサイトは上記のサイトたちとは趣が違ってカフェの音をエンドレスに流してくれるサイト。Webサイトのデザインがオシャレです。カフェでよく作業する人は自宅でも疑似体験できるので使ってみていかがでしょうか。静寂の中で作業するよりも少し音があったほうが生産性があがるそうです。

いかがでしたか。個人的にはJAZZ and RAINがシンプルなのでよく使っています。リラックスしたいときにはもちろん、集中したいときなどにもどうぞ。

伽藍か?バザールか?

ソフトウェア開発永遠のテーマ

ただいまアジャイルがダメか、良いかで(ごく一部の限られた社会で)大変な盛り上がりを見せているようです。僕も職種こそプログラマからコンサルタント、マーケティング、営業へと変化していったものの、サラリーマン時代は一貫してソフトウェア業界に生息してました。今にして思えば、僕がソフトウェア業界でキャリアを積んだ時期とアジャイルが世に広まった時期はほぼ同じだったようです。マイクロソフトの Visual Studio に Team Systemが登場した2005年に、日本中を飛び回って Visual Studioを使ってイテレーション開発をやりましょうなんて説いて回ってましたしね。そんな僕ですから、もちろんアジャイル側の人ってことになるでしょう。

 

「アジャイルがダメだと思う7つの理由」から始まったアジャイル論争の現時点のまとめ

 

議論の内容自体は、上記サイトを参考にしてもらうとして、色々と考えさせられました。そして、あらためて思いました。アジャイルかウォーターフォールかの議論は10年以上経ってもあんまり変わってないんだな、と。

 

開発方法論に良し悪しはない

たとえば、実体経済よりも一歩先行する金融経済の世界では、超巨大で、超複雑で、しかも極めて高いセキュリティが要求される超高度なシステムが日々運用されています。現代の金融機関にとってはまさにシステムこそが命ですね。そのような巨大なシステムをアジャイル手法で開発するというのはやはり想像できません。東京スカイツリーやエンパイヤステートビルを事前の構造計算や設計、人員計画、必要な部材の調達計画なしで建造することは不可能だと誰にでもわかるでしょう。

一方で今、ビジネスの世界でのキーワードはコンシューマライゼーション(消費者個人)です。昨今のテクノロジの進歩によって、毎日のようにどこかで斬新なサービスやソフトウェアが生み出され、それがSNSを始めとするインターネットを介した新しいコミュニケーションツールによって世界中に広まっていく、このような現象はほんの数年前まではなかったことです。そうなると必然的にトレンドが移り変わる速度も加速することになります。

同じ金融機関であっても、今度は基幹系とは異なる情報系システム、たとえば「新婚カップル向け新築ローンアプリ(アベノミクス対応)」などの場合、あれこれソフトウェア開発の計画を立てて、社内稟議を回して、ダウンロード数の予測を立てて、なんてやるのは馬鹿な話です。こちらは、それこそ開発計画や詳細設計などを作る暇があるなら、さっさとアジャイル手法で動くものを作ってしまい、実際にユーザーのレビューや反応を見ながらアップデートを繰り返し、機能を拡充していくのが正しい戦略となります。3週間で開発して、運用しながらアップデートをして、半年後には運用終了なんてことが実現できるわけですからね。

 

伽藍かバザールか?

エリック・レイモンドさんは「伽藍とバザール」の中で小さなカーネルから始まった Linux を称賛しました。現にそれが今や社会を支える基盤といえるほどまで成長し、またオープンソースという思想をも広める重要な役割を果たしました。そして Linux がこれほど成功した裏側には、90年代のコンピュータの世界に、それ以前から脈々と育っていたハッカー文化があったおかげであることは間違いありません。そんなハッカー文化と非常に強い親和性を持つアジャイル開発と、日本の行政機関や金融機関、あるいは巨大製造企業の電算部門から発展したウォーターフォール型の日本のIT企業は残念ながら簡単にはわかり合えないというのも仕方ないのかもしれません。

ご存知の通りインターネットの登場によって主に金融や情報が国境を自由に越えて行き来するようになりました。しかし、今世界経済のトレンドは、グローバルな自由化です。今後は金や情報だけでなく、ヒトやモノがもっともっと激しく流通するようになるでしょう。日本にいると全然気づきませんが、本当に今世界は凄まじいスピードで変わりはじめています。

「バザール方式」よりも「伽藍方式」を得意としてきた日本のIT企業は、バザール方式のダメな所を探すよりも、むしろうまく取り込む必要があるのではないかと思います。僕らピアズ・マネジメントでは、これを「城下町方式」と呼んでいます。日本の城下町は、中心に立派な天守閣があり、その周辺に自由闊達なる商工業の町が形成されていました。どちらが良いという二者択一ではなく、両方です。この両方をバランス良く成長させることで、経済的にも、軍事的にも強い国(藩)となったのではないでしょうか。重要なのは「伽藍もバザールも」ってことです。

 

最後はやっぱり人

日本のソフトウェア開発者に求められるのは、どちらの開発手法が良いのかを議論することよりも、両方に精通し、それぞれの良いところを柔軟に取り入れながら、社会や消費者が求めているシステムを素早く提供していくことではないかなと思います。なぜならば、ソフトウェア開発方法論の議論は、最後は必ずそれを実行する開発者の能力にかかっているという結論に行き着きますからね。

 

衰退、そして創造と再生〜ルネサンスと日本文化 I 〜

「失われた20年」

そんな言葉を誰もが100回や1000回くらいは聞いたことがあるでしょう。失われた20年。なんとなく響きも良いです。良い感じでどんよりします。特にメディアを通じて、こんな暗い内容ばかり流されると、20年間を無駄にした政府や政治家を批判したくなるんです。人の性です。

ここではこの20年の日本の政治がどうだったかは別として「失われた20年」という言葉をもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。まずは、この20年で一体何が失われたのでしょうか?日本の領土?日本の金融資産?日本の人口?

実際にはそんなに色々と失ってはいません。そりゃ株価はバブルの頃よりは下落したかもしれませんがGDPはほとんど横ばいでキープしてます。むしろ、この20年は為替に翻弄され、景気後退局面にあるにも関わらず厳しい円高が続いていましたが、それでも踏ん張ってきた日本経済ってものを考えると、日本の底力を見せつけられる思いがします。

確かに政府の借金は増え続けているし、税収は落ち込んでいます。少子高齢化はますます加速し、グローバル化の波は否応なしに日本にもやってきているのが現状で、それはそれで大変ですが、こんなの仕方のないことです。日本政府だけでどうにかなるもんでもありません。よく、日本は外圧がなければ変われない、なんて言われますが、本当のところそれは日本に限ったことではないのかもしれません。

フィレンツェの景色 © Francisco Antunes

14世紀にヨーロッパでルネサンスが興りました。こんなことは社会の授業で習ったのでみんな知っているでしょう。ヨーロッパでルネサンスによる文化の花が開き、ダ・ヴィンチ(1452〜1519)やミケランジェロ(1475〜1564)などの巨匠が活躍していた時(15世紀〜16世紀)、日本では何が起きていたでしょうか。

応仁の乱(1467〜1477)です。応仁の乱が収束した後も、各地で内戦が続き、最終的には全国を巻き込む戦国時代がやってくることはご存知の通りです。僕たちは、ルネサンスと応仁の乱を、社会の別の授業で習いました。少なくとも、この2つの歴史的事象に強い相関関係があることは教わった覚えがありません。しかし、物事には大概原因というものがあり、それをひとつずつ紐解いていくと、これまで見えていなかったものが鮮やかに浮かんでくるのです。

次回は、ルネサンスと応仁の乱の関係を見ていきます。