シャルトル大聖堂とイノベーション①

By 2011/02/15 No tags Permalink

◆ ドラマ「大聖堂」が面白いぞ

最近土曜日の夜にNHKのBS hiで「大聖堂」というドラマシリーズをやってるわけですが、これが僕のちょっとした毎週の楽しみになってます。

腕の良い石工トムって主人公が出てくるのですが、このトムが様々な人に出会い、失敗や挫折、チャンスや困難に遭いながらも生涯の夢である大聖堂を自分の手で建築するまでのドラマ、って感じでしょうか。とりあえず最高に面白いです。

舞台は12世紀の中世イングランド。登場人物はもちろんトムだけじゃありません。王侯貴族、教会、庶民、それぞれが我が身のためだけに権謀術数の限りを尽くしてます。とても野蛮で陰惨な時代ですね。それもかなり生々しく表現されています。全8回ってことで、まだまだ序盤です。気になる方はぜひ見てみてはどうでしょうか。

NHK BS hi ダークエイジ・ロマン「大聖堂」
http://www9.nhk.or.jp/kaigai/daiseidou/index.html

◆ そしてシャルトル大聖堂

このドラマとよく似たことが12世紀、中世フランスで起きました。それが現在最も有名な世界遺産の一つとなっているシャルトル大聖堂の建築です。

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ドラマでは登場人物の一人、少年ジャックがトムのために聖堂に放火したことでキングスブリッジの大聖堂が焼け落ち、首尾よくトムが大聖堂再構築を行うことになるわけですが、シャルトル大聖堂は1194年の6月に落雷によって起きた町の大火で焼け落ち、やはりそこから大聖堂の再建が行われることになりました。

シャルトル大聖堂(遠景)

Panoramio – シャルトル大聖堂周辺の地図と写真
http://bit.ly/h92Wv4

シャルトル大聖堂はカトリックの中でも、マリア信仰の中心地として中世のキリスト教世界において多くの巡礼者を集める聖地となっていました。そんなシャルトル大聖堂が焼け落ちたというから大変です。しかも、聖堂よりもはるかに問題なのが、聖母マリアがキリスト生誕の際に着ていた衣とされる聖遺物が大聖堂の崩壊と共に燃えちまったことです。

この秘宝は876年にフランス国王からシャルトルの町に贈られたもので、この聖衣こそが人々の信仰の支えであり、また観光客や巡礼者を呼び込む観光資源になっていました。ところが、大聖堂の崩落と聖衣の紛失によって、巡礼者はいなくなり、町はみるみる困窮していきました。

信仰心の厚い当時、マリアの聖衣が失われたことで、マリアの祝福がなくなると考え、町の人々は恐れおののいたのも当然と言えるでしょうかね。

◆ 策士ルノー司教

中世は現代と違って教会が政治に深く関与していました。しかも、その地を治める伯爵家と共同で、なんてことは当然なく、教会は教会で税金を集め、伯爵は伯爵で税金を集める、なんていうことが普通の時代でした。教会は王侯貴族と対立していたために、いつも政治力を求め、また自らの権威を高める機会を伺っていたのは間違いないようです。

シャルトルの町が火災に見舞われた1194年、シャルトル大聖堂で司教を務めていたのはルノー司教という偉い人でした。この人はカリスマ的なリーダーシップと行動力、人並み外れた知性を持っていたようで、不幸のどん底にある町の人々と、教会の修道士たちを立ち直らせようと奮起します。

時を同じくして、シャルトルの町へバチカンから枢機卿が慰問のために訪れ、半分焼け落ちた聖堂で人々に福音を説いていました。そしてまさに枢機卿の説教がクライマックスを迎えたその時、聖堂のドアが開き、ルノー司教が現れたわけです。

焼けてなくなったはずの聖衣を持って。

そりゃ町の人はひっくり返ったことでしょう。まさに奇跡です。燃えたはずの聖衣が蘇ったのですから。実は修道士がちゃんと鉄製の箱に入れていたおかげで燃えずに済んだそうです。そしてルノー司教はこう言います。

「これは決して神の罰ではない!それどころか新しく、それもかつてないほどの大聖堂を建造せよとのマリア様からのお告げである!」

町は悲しみのどん底から一変してマリアの奇跡による歓喜に変わり、不可能かと思われたシャルトル大聖堂の再建が始まるわけです。

現代の歴史学者は、この時の枢機卿とルノー司教のやり取りや、聖衣の復活は巧みに仕組まれた演出であった、と分析していますが、まぁ、そうだろうなぁと言う気はしますね。いずれにせよ、結果として、この奇跡のおかげでシャルトルの町はおろかヨーロッパ中から大聖堂再建の寄付が集まったことは事実のようです。

ルノー司教が凄いのは、未来を失いかけた人々にもう一度希望の光を灯し、そのためならば清濁併せ呑む豪胆さを持ち、誰よりも金策に走り、バチカンや国王の信頼を得るためならば率先して十字軍遠征のような死地にも赴き、そして、本当にかつてない大聖堂たらしめる独創的なアイデアを次々と生み出していったところです。そして亡くなる直前までシャルトル大聖堂にかける情熱の火はいささかも衰えることはありませんでした。まさにスーパーマン。

◆ シャルトル大聖堂建築で生まれたイノベーション

ちなみに当時の建築技法はローマ帝国時代の流れを汲むものでロマネスクと呼ばれていました。1145年から建築が行われていたシャルトル大聖堂もロマネスク様式で建造が進んでいました。しかし、大火の後、ルノー司教の元で再建された大聖堂はもはやロマネスク様式ではありませんでした。

シャルトル大聖堂(正面)ルノー司教は最後まで再建にかかる費用の工面に苦労しました。何度も資金は底をつき、工事は頓挫します。そのたびにルノー司教と彼を支える建築家集団は知恵とアイデアで、困難を乗り越えていくわけです。そして、その独創的なアイデアの結果、生まれた建築様式は後にゴシック建築と呼ばれるようになるわけです。

資金難や労働力不足を知恵とアイデアで乗り越え、逆に新しいイノベーションを生み出したルノー司教と当時の建築家たちから、僕らが学ぶことは思いの外多いように思えます。

次回以降、具体的にどんなアイデアがシャルトル大聖堂に詰め込まれているのか少しずつ見ていくことにしましょう・・・つづく

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